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コミュニケーション~学校生活~

コミュニケーションが成立しない日々

僕は20代前半まではいわゆるコミュ障でした。

挨拶も出来ず、ボソッと喋るだけで相手の反応はお構いなし。

特に商社で働いていた時が一番酷かったです。

飲み会でも上司にお酒を注ぐわけではなく、年上だろうがタメ口で話し仕事の話にはついていけない。

しかも当時は90kgの肥満体型という外見的なコンプレックスを抱え・・・。

いつもこうやって思い返すと泣けてきます。

少しコミュ障経歴を書きますね。

学校生活での人間関係

小学校

小学校時代は成績は悪かったですが普通に話せる男子は多かったです。

ドッヂボールをしたりファミコンをしたり。

ただ当時ファミコンにハマっていたので、ゲームやりたさに遊ぶ約束をドタキャンしたりということが多々ありました。

友達の家に行ってもファミコンで遊ぶことしか考えてなく、どの家に何のゲームがあるかで遊ぶ子を決めていたような気がします。

小学校はそこまで悪ガキはいませんでしたので、何かされるわけでもなく平和に過ごしていました。

みんなさっぱりしていたので、人間関係については悩むことはありませんでした。

僕がアトピーを発症し眉毛が薄くなったことをからかう子もいましたが、相手も飽きたのか短期間で終わりました。

しつこくちょっかいかけてきた相手に一度だけキレて殴ったことがありますが、当時は今と違って問題になりませんでした。

また、女子と話すのが凄く苦手でした。

話しかけられても何を話せばいいかわからず挙動不審になったり、ゲームの話ばかり振っていたような覚えがあります。

まとめると、僕はまるで気の利かない子でした

中学校

中学生時代も部活をやってましたし、孤独を感じたことはありませんでした。

部活で指示されたことが理解出来ずコンビを組んだ相手を怒らせることはしましたが、文句を言われただけで済みました。

成績が悪くても特に馬鹿にされることもなく。

塾に行っても下位クラスから上がれず、テストの点数は上がらず。

係や委員の仕事は何もせず。

教師からは生活がたるんでいると皆の前で説教され晒し者にされ。

当然のごとく陰で色々言われていたということを知ったので、直接的では無かったのですが結構皆から見下されていたんだと思います。

イジメ

当然不良の何人かには目を付けられました。中学3年生の時の担任が頼りなかったので枷が無くなったというものありました。

結局人より理解力が無かったり、言われたことが出来なかったりするので下に見られたんだと思います。

さらに肥満体型ということと、体力がないという2点が決定的な原因でした。

ただ、殴られたりというのはなく毎日因縁付けられていただけでしたが、心が弱かったので耐えられず仮病を使って早退したりしていました。

学校に行きたくないと思っていましたが、当時登校拒否をする生徒はヤンキーしかいなかったので普通に登校しひたすら我慢していました。

そいつらには暴走族に入っている兄貴がいたりで、一度揉めると引っ越さない限りは延々と狙われるという恐怖もありました。

図工の時間に間違えてカッターで不良の一人の親指を切って血まみれもしてしまったという負い目もありました。

そいつはティッシュで血が止まるまで親指を抑えていて、教師には告げ口することはありませんでした。

彼にはタバコひと箱分のお金を払って終わりました。

当時はよくそれでカタがついたなと思いました。それをきっかけに少しイジメがエスカレートしましたが、凄まれるだけで殴られることはありませんでした。

卒業したら、そいつらに会うことはありませんでした。

殴られるとか叩かれるとかは一切無かったのですが、体操服を汚されたりはしました。

それで済んだので、イジメというよりはからかいに近いかもしれません。

だから卒業後は、

「高校ではとにかく舐められないようにしないと。」

ということしか考えられなくなりました。

高校受験~高校入学までの経緯

元々小学校の頃から勉強は苦手だったのですが、四則演算は得意だったので何とかなりました。

それでもどの教科のだいたい60点~70点くらいでしたが。

しかし中学2年あたりから特に勉強についていけなくなりました

今でもそうなのですが、日中眠くて仕方ない&集中出来ず、特に先生が話していることが理解出来ない

自宅で机に向かっても突っ伏して寝てるか、マンガに手を出すかでまともに勉強したことが無かったです。

ADHDと睡眠障害 遺伝的に関連 浜松医大研究グループ発見

最近このニュースを知って、眠いのはこれじゃないか?と思ったほど毎日眠気が強かったのです。部活の疲れや睡眠不足のせいではないと思います。

何校か受けたのですが、すべり止めの私立高校のみ受かりました。

塾にはただ行っていただけで、何一つついていけませんでした。当時は何でヤンキーとテストの点数が同じなんだろうと思ったりしたこともあります。

そのすべり止めの高校は、今は進学校になっていますが、当時は結構荒れていて、暴走族が校内に入ってくるほどでした。

中学の時は悪党というくらいのヤンキーはいませんでしたし、そこそこの節度はありました。

ただ高校になると話が違ってきます。

それもあって当然偏差値が45くらいの高校なら荒れててヤバい連中しかいないだろうと。

舐められるわけにはいかないと。喧嘩になってもいいように気構えておこうと。

まず第一印象が大事ということで、カバンを潰したり学ランの下に紫のシャツを着てちょっとワルっぽい恰好で高校生活を送ることに決めました。

高校

僕のクラスはヤンキーが一人もいないまともな生徒ばかりでした。

そこで完全にコミュニケーションを取る方法を間違えました。予想外すぎました。

てっきり目つきのヤバいのが半分以上いて、目が合ったら喧嘩売ってくるようなのばかりと思ってたのに。

当然悪目立ちした僕が仲良くなれるはずがありません。

それも3年間を通してクラスの入れ替えはないため、同じ生徒達と過ごさないといけないのです。

僕は乱暴なことは一切せず、そこまで怖がられてはなかったと思います。

ただ、序盤から少し粋がっていたせいか「~君」と君付けで呼ばれて距離を置かれていました僕も9割がた相手を君付けで呼んでさらに壁が出来ました。

もともとコミュ障なので、挽回する方法もわからず気軽に話す事も出来ません。

昼食時に話しかけたりしてなんとか距離を縮めようとしたのですが、皆学食で僕だけ弁当のため、ほぼ毎日一人で食べていました

うちの母親が弁当を作るのが義務という考え方だったので、学食で食べると言っても却下され弁当を持って行かされました。

一つ下の妹も高校に入ってからは弁当だったので、一緒にという事で作ってたんだと思います。

そういうわけで昼食は3年間一人で食べてました。

体育のチーム分けも修学旅行の部屋割りも、とても居心地悪かったです。

クラスで麻雀が流行っていた時は仲間に入れてもらったくらいです。

嬉しかったのでテンション上がって調子に乗って余計な事を言ってたと思います。

麻雀ブームが去ったらまた一人になりました。

高校の時の楽しみは、

  • 日曜日に一人で秋葉原へ行くこと
  • 放課後春日部駅で降りてブラブラすること
  • パソコン通信
  • パソコンやスーパーファミコンのゲーム

くらいでした。

日曜日の昼間は毎週ラジオを聴きながらうたた寝していました。

さらに当時アニメや声優が流行りどんどんヲタク化しました、現実を見ようとしなかったかもしれません。

当時(1995年頃)はスレイヤーズ、エヴァンゲリオン、CLAMP作品など色々流行しました。

当時のクラスは3年間別館で孤立したクラスだったため、人間関係の揉め事は一切ありませんでした

高校のクラスメイトは卒業後全く会っていません。

もし会うことがあったら、当時の事を謝りたいなと思います。

ただ恐らく会うことはもう一生無いと思います。

こうやって書いていると、当時に戻りたくなりますね・・・。

クラスメイトに会いたいというわけではなく、当時の秋葉原や全体的な文化の雰囲気が大好きだったのです。

余談:大学受験

これも失敗しました。

大学へ行きたい理由は家を出て一人暮らしたいからです。

目的はただそれだけです。法律や経済を学びたいとか文化や歴史に触れたいとか全く興味ありませんでした。

家も家族も全て大嫌いでした。(今は僕は結婚して離れているので疎遠になっています)

自分の部屋だけあればいいと思っていました。

多分ですが、中学の頃からうつの状態になっていたんだと思います。

慢性的なものではなく、繰り返し発症していたように思います。うつと診断された今だからそう思います。

もともと自分の学習状況を考えて大学は無理だと思っていました

しかし両親や親せきは大学へ行くのが当然という考えを押し付けてくるので、自己主張も出来ず逃げられませんでした。

干渉ばかりしてくる家から出て一人暮らししたい一心で頑張ろうと思いましたが、教科書を何度読んでも、意味が理解出来ない&覚えられない。

英単語や歴史は覚えても次の日には忘れてるので、また同じところから書いたりする。

でもまた翌日に忘れる。

現代文はこの文章が何を言いたいのか意味がわかりませんでした。

しかも気が散って5分もたず、何も手が付けられない。

これがずっと続きました。

センター試験や私立大学の入試問題は、長い問題文や選択肢の文章を読む事さえ気が散って困難でした。

 もちろん当時はADHDなんて知らなかったので、誰も彼もが言うように努力不足なんだと思い込んでいました。

結局努力でどうにかなるわけがなく、現役で受かるはずありません。

浪人生として予備校に行っても周囲は友達を見つけてグループ作って和気あいあいとしているのですが、当然話しかける事も話しかけられる事もなく一人で過ごしていました。

学校と違って予備校なので人間関係は不要かもしれませんが、やはりお互い刺激を受けるでしょうし羨ましく思えます。

勉強面では相変わらず理解出来ず、全てが嫌になりました。

自習室でやった問題集もバツばかりで受かる確率は絶望的と思っていました。

コミュ障の原因

社会人生活のコミュ障部分は、別記事で書いたりしているので省きますね。

そもそもなぜこんなコミュ障になったのか考えてみました。

自信がない

学校生活では理解力も集中力もなく、相手に興味を示さずファミコンの話題しかせず。

少年野球をやっていましたが、キャッチャーなのにボールが全く取れず、試合では一球一球こぼれ球をだすので、みんなイライラしてたと思います。

中学のテニス部でも先生の話が理解出来ず、怒られる

教師にも「たるんでいる」と怒られる

親からも1学期毎(当時は3学期制)に通知表を見ながら努力が足りないだのなんだのと怒られる

結果何かをやり遂げたというものが全くないのです。

胸を張れるものが何もないのです。

そうなると自分はダメな人間なんだとどんどん悪い方向に考えチームプレイが嫌いになり、最終的に人と関わりたくないと思えてきたのです。

しかも小学生の時から衝動で食べる事が増え、どんどん太っていきました。

学校でも家族からも太ってると常に言い続けられましたし、自覚もありましたが自分ではどうすることも出来ませんでした

中学で部活をやっている頃は身長が伸びたせいで見た目少し細くなったのですが、痩せたわけではなく筋肉質ではないし太っているという認識しかありませんでした。

持久力も無いし、腹筋も懸垂も1回も出来なかったので。

部活を引退すると結局また太りだしました。

高校の頃は帰宅部だったのと、買い食いが出来たため、さらに太り高校卒業後はまたまたさらに太って最終的には92kgまでいきました。

太っていると周囲の目が気になり、斜め下を向いて歩くようになっていました

もはや生きててすみませんという後ろめたさしかありませんでした。

話が合わない

当時依存レベルでファミコンなどのゲームが好きだったので、ゲームの話題しかついていけませんでした

どこへ旅行へ行ったとか野球の試合がどうだったかとかそのような話題は全く興味がわかず、「ふーん、へー」で終わっていました。

語彙力もかなり低いと思います。

好きな話しか参加しない、好きな事になると饒舌になる。

こういう人って嫌がられますよね。

積極性がない

昔から自分から進んで何かやるというのが苦手でした。

何かの係になっても、学級副委員長になっても、何もしませんでした。

友達?が、

「あいつは何もしないと陰でみんな言っているよ」

と教えてくれましたが、それでも動けませんでした。

何もしていない時は何をしているのか?

ボーっとしてるのか、または別の事をしているのか全く覚えていません。

が、動かなかったのは確かです。何をしていいのかわからないということが多かったように思います。

恐らく上記の通り、自信も意欲も何もなかったんだと思います。

もしくは何をすればいいのかわからないとか。

頭の中が多動で色んな考えが入って来てボーっとしてたのかもしれません。

とにかく積極性に関してはゼロでした。

当然誰も自分に期待しません。見下されるだけです。

終わりに

こうしてコミュ障が一人出来上がりました。

読み返すと、当時の事を思い出してかなり精神的なダメージを受けています。

と同時に懐かしさがこみあげてきます。

今まで生きてきて、本当に周りに迷惑をかけて来たなと実感します。

迷惑をかけない人間なんかいない、というようなレベルではなく。

その状態なら何とか話せるようになった経緯については近日公開します。

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